高坂政典の草刈り
従業員通用口の前で一礼し、ドアを開け職場に足を踏み入れる。
その作動は、この職場で働き始めた最初の日から、一度たりとも欠かした事が無い。
高坂にはそう言ったルーティンが数多くあった。
ドアノブを持つのは左手、新たな境界に踏み入れるのは右足。
ロッカーで制服に着替え、手早く仕事道具を腰回りに備え付けると、トイレで用を足し手を洗う。その後本日の作業計画を確認し、出勤予定時間のちょうど10分前にタイムカードを打刻する。
出勤までの流れは年を通して乱れた事が無かった。
毎日が決まった通りに流れていく、いや、決めたとおりに進めていく。
小さなことを一つ一つ確実にクリアしていく、その心地よさに囚われているといっても良かった。
ただし決めた通りに進められるのもそこまでであった。
出勤するや否や、いつも通り上長から指示が飛んできた。
『高坂さん、今日の品出しは他の人に任せて、駐車場の雑草刈って。』
天気、気温に客数が左右される小売業界では、作業計画が当日に塗り替えられる事は日常茶飯事であった。
その事に不満げな態度を見せる従業員は多かったが、高坂は好んでいた。いや、最初から好きであったわけでは無い。長い月日を経て、好まざる得ない体になったと言った方が良かった。
「ほい来た!」高坂は嬉しそうな笑みを浮かべ答えた。
広大な駐車場にはびこる雑草処理は、4月から10月位にかけて、2か月に一度くらいの頻度で行うミッションだった。そのタスクチームに高坂はたいてい指名されていた。
備品庫にあるマキタの刈り払い機に混合燃料を入れ、ゴーグルと防振手袋を装着する。
50回以上草を刈って来た男のその所作は、職人芸といっても良かった。こんなに短時間で完璧に準備を済ませる事ができるのは、日本全国で100人にも満たないであろう。
どんな作業においても高坂の仕事にはそういう面が垣間見えた。決して勘の良い男ではなかったが、何度となく繰り返していくうちに無駄が削ぎ落され、歌舞伎や浄瑠璃といった伝統芸能を見ているかのような所作を感じさせるようになるのであった。
例の如く、刈り払い機を素早くかつ丁寧に持ち運び、最も交通量の多い出入り口の隅から草を刈り始めた。
午前8時で気温は15度を超えていた。
今日は暑くなりそうだ、午前中に南西側はやっつけないといけない。
高坂政典は目を細め、太陽を睨んだ。