今回の研修で学んだ事
わが社の研修には、外部コンサルタント会社から講師を招くことがほとんどである。
その日は例外で、講師はわが社の人事部社員で、年齢は30代半ばの若手であった。
こんな若手社員に何を教わる事があるのか等と斜に構えてみていたが、侮るなかれ恐ろしく饒舌に研修を進めていく。
しかもこれまで見た中でダントツに字が上手い。
ホワイトボードにすらすらと書き込まれるキーワードは頭には入ってこないものの、目には焼き付けられた。図形についても同様、描かれる円は真円とはこの事なりと言っても過言ではなかった。
頭打ちの事業を止めにして、この講師を商品化して、コンサルタント会社を立ち上げた方が儲けを出せるのは無いだろうか。
それほどまでにこの同僚講師は堂々たるものであった。
そんな彼が、研修も中盤に差し掛かった頃、突然語気を強めだした。
かかっている、競走馬であればそんな表現をされる状況であった。
スパートとは違う、明らかに異常な興奮状態になっていた。
彼がその状態になったのは、受講生の長川さんが質問した事に端を発した。
質問内容への返答を終えると、長川という苗字に食いつき、過去に長川という上司にお世話になったという話を始めた。
お世話になったというのは婉曲的表現で、実際はパワハラを受けていたようであった。
今回の研修のテーマにも沿っていた為、その数々の事例を生々しく説明した。
怒って口をきいてくれなくなったその上司に、土下座をして許しを得た等、聞いてるこちらも反吐が出そうな話をしている時だった。
若手講師の顔は真っ赤になり、声に涙が混じり、少しして嗚咽が始まった。
会場全体が異様な光景に静まり返った。
受講生の長川さんは、講師が言う長川さんとは赤の他人であったが、申し訳なさそうに俯き、頭を下げ謝っているように見えた。
こういう形のパワハラも存在しうることを学んだ。
ホテルのサービス
昨日は年に一度の会社主催の決起集会がホテルで開催された。
会の終わりには毎回それなりのコース料理が提供される。
一流ホテルの料理が楽しめるとあって、皆が楽しみにしているイベントである。
スープが配膳されたときに、サービス係の女性に声をかけられた。
『お客様のシャツの襟元が汚れております。もしかしたら私どもが配膳の際に汚してしまった可能性があります。クリーニング致しますので、お帰りの際コンシェルジュにお声がけください。』
襟元の汚れはそれほど目立つものではなかったものの、些細なことに気づき声掛けしてくれた事に、さすが一流ホテルは違うなと感心した。
そうは言っても面倒な事が嫌いな性格なので、何も言わずに帰ろうとホテルを出ようとした。
その時、コンシェルジュらしき係員に声をかけられた。
『お客様、シャツの汚れの件、配膳係より賜っております。クリーニングさせていただきますので、お待ちいただけませんでしょうか?』
二度言ってくる本気さを遮るのが面倒になり、流されるままクリーニングする運びとなった。
案内された個室でシャツを脱ぎ汚れを確認すると、私の目からは料理の汚れ等一切なく、体から出た積年の汚れが付着している他無いように思えた。
コンシェルジュはその事に気づかないふりをし、深く謝りながらシャツをクリーニング後、お客様宅へ送付させていただきます等と説明をしていた。
ここまで来たらクリーニングしてもらうしか無いと流れに身を任せ、代わりに着て帰れる服が用意できるかを確認した。
コンシェルジュはお安い御用とばかりに、私の体のサイズに合いそうな服をいくつか持ってきた。
揃えられた服は、目に眩しいタイダイのTシャツや、ゼブラ柄のスエット等、何故か派手でカジュアルすぎるものばかりが構成されていた。
スーツ姿に合う、もう少しオーソドックスなものが無いか、ごく普通の白いシャツで良いとリクエストした。
少ししてコンシェルジュは、二着の服を用意した。
一着は猫の顔がフロント部にプリントされた白いYシャツ。もう一着はフロント部はノープリントだが、猫の顔のフードが付いた白い薄手のパーカーであった。
『最もお客様のご要望に近い物をご用意いたしました。』
コンシェルジュは用意できていない事に気づかないふりをして、神妙な面持ちで言った。
帯に短し、たすきに長しとはこの事か。
やむを得ず猫の顔がプリントされたシャツを選んだ。いやその一択しか無かった。
スーツとネクタイで隠せば、猫の顔はほぼ見えないとは言え、帰りの電車の中では誰かに気づかれないかドキドキした。
女性用の下着を着けて町を歩く男子の気分は、およそこんなのだろうかと考えたりもした。
かくして、私の部屋には今、猫顔プリントシャツがハンガーにかけられている。
改めて眺めてみると、吊り橋効果のせいか、愛着が湧いていた。
もしクリーニングされたシャツが返ってくるまで、この気持ちが続いていたならば、買い取る方向で話を進めようと、割と本気で思っている。
図書館が好きな理由
私には趣味がない。
そのせいか、人と会話するのが億劫である。
私から話す事はほぼ無く、聞き役に徹するのであるが、人の話を聞いて、相槌を打ち、質問を捻りだし、笑い声をあげる、その作業に辟易としている。
そんなわけで、休日にする事が無い。
通常は、朝起きたままの格好で、一歩たりとも家から出ない。
気分が乗った時は、少し外の空気に当たりたくなり、近場を散歩するのであるが、すぐにそれも飽きてしまい、大抵行き着く先が図書館である。
私の町の図書館は恐ろしく小さくて、古い。
いつ行っても来館者はほぼゼロである。
入館するとまず司書のおばあさんに、老猫のようなジロリとした目で見られる。
まずはここが第一の関門である。
一階は子供用の本がほとんどなので、私が読みたい本はほぼ二階にある。
一階をぐるりとし、読みたい本が無いことを確認してから二階に上がる。
読みたい本が無いことはわかっているのに、毎回一階をぐるりとする理由は、二階に上がるのに困難が待ち受けているせいである。
というのも、二階に上がるための階段が、人ひとり通れるくらいの細さで、角度が60度くらいと非常に急な斜面になっている。
しかもなぜか二階に着く少し手前の段に、携帯扇風機が6個くらい、不安定な状態で立てかけられているのである。
よって、できる限り振動を起こさないように上る。
少しのひずみで携帯扇風機が転げ、階段の下に落ちて行ってしまうのだ。
過去二度ほどそのミスを犯してしまい、その度におばあさん司書に階段の下からジロリと見られた事がある。
「すみまません」と謝る私に、おばあさんは何も言わず、携帯扇風機を拾い上げ階段に立てかける。
その無言の叱責が恐怖で、二階に上がる為のウォーミングアップが必要なのだ。
そのトラップを飛び越えてなんとか二階にたどり着くと、晴れてゲームクリアー。
誰一人いない空間に、壁一面ずらりと本が並んでおり、北側の窓辺には畳座敷がある。
そこに座りたった一人の来館者として、暗くなるまで本を読み続けている。
帰り際には、次来るときはこの図書館の存在が無くなっている気がして、おばあさんに心から「さようなら」と言って退館する。
おばあさんは最後まで無言で、ジロリと私を見送る。
こんな町の図書館が、私にとって最高の居場所なのである。
空き巣
家に帰るとリビングの窓が完全に開いていた。
その横にぐにゃりと形を変えられた網戸が置かれている。
空き巣?
この部屋にある盗られそうなものを確認して回る。
一眼レフ、ノートパソコン、スイッチ。どれも存在する。
部屋が荒らされた形跡もない。
何?誰?被害は網戸だけ?意味が分からない。
恐怖感でゾクゾクしながら隣の部屋に行くと、ガサガサと誰かが潜む音がした。
「誰かいる?」恐る恐る、強めの声でもう一度尋ねる。
「誰かいる?」
『ワァッ!」
威勢よくおじさんが飛び出してきた。
「おやじ!何してるん?」
自分の父親であった。ここ数年で一番イラっとした。
『サプライズよ。元気してるかい?』
こちらの気も知らず、親子の会話をしかけてくる。
「つーか、網戸なんでこんな曲がってんの?」
恐怖感以外では、唯一の被害物について問いただす。
『窓の鍵がかかってなかったから、入ろうと思ったら、網戸が外れて落ちたわ。最初からや。不可抗力よ。』
不可抗力ではないだろう。そして絶対に最初からではない。
まあ、網戸って買い直せば1万円くらい?
弁償してもらえばいいかと思い直し、久しぶりの父親の来訪を楽しむことにした。
人生で最も大切な事は切り替えである。これは、親父から教わった事だった。
高坂政典の草刈り
従業員通用口の前で一礼し、ドアを開け職場に足を踏み入れる。
その作動は、この職場で働き始めた最初の日から、一度たりとも欠かした事が無い。
高坂にはそう言ったルーティンが数多くあった。
ドアノブを持つのは左手、新たな境界に踏み入れるのは右足。
ロッカーで制服に着替え、手早く仕事道具を腰回りに備え付けると、トイレで用を足し手を洗う。その後本日の作業計画を確認し、出勤予定時間のちょうど10分前にタイムカードを打刻する。
出勤までの流れは年を通して乱れた事が無かった。
毎日が決まった通りに流れていく、いや、決めたとおりに進めていく。
小さなことを一つ一つ確実にクリアしていく、その心地よさに囚われているといっても良かった。
ただし決めた通りに進められるのもそこまでであった。
出勤するや否や、いつも通り上長から指示が飛んできた。
『高坂さん、今日の品出しは他の人に任せて、駐車場の雑草刈って。』
天気、気温に客数が左右される小売業界では、作業計画が当日に塗り替えられる事は日常茶飯事であった。
その事に不満げな態度を見せる従業員は多かったが、高坂は好んでいた。いや、最初から好きであったわけでは無い。長い月日を経て、好まざる得ない体になったと言った方が良かった。
「ほい来た!」高坂は嬉しそうな笑みを浮かべ答えた。
広大な駐車場にはびこる雑草処理は、4月から10月位にかけて、2か月に一度くらいの頻度で行うミッションだった。そのタスクチームに高坂はたいてい指名されていた。
備品庫にあるマキタの刈り払い機に混合燃料を入れ、ゴーグルと防振手袋を装着する。
50回以上草を刈って来た男のその所作は、職人芸といっても良かった。こんなに短時間で完璧に準備を済ませる事ができるのは、日本全国で100人にも満たないであろう。
どんな作業においても高坂の仕事にはそういう面が垣間見えた。決して勘の良い男ではなかったが、何度となく繰り返していくうちに無駄が削ぎ落され、歌舞伎や浄瑠璃といった伝統芸能を見ているかのような所作を感じさせるようになるのであった。
例の如く、刈り払い機を素早くかつ丁寧に持ち運び、最も交通量の多い出入り口の隅から草を刈り始めた。
午前8時で気温は15度を超えていた。
今日は暑くなりそうだ、午前中に南西側はやっつけないといけない。
高坂政典は目を細め、太陽を睨んだ。
キャノンリング
新しいアトラクションがが面白いという噂を聞き、私は妻と下の娘を連れ、久しぶりに遊園地に訪れた。
そのアトラクションはキャノンリングと言い、チューブ状のサーキットの中で、周回している悪役が放つ弾丸から逃げるという、鬼ごっこのようなシンプルなものであった。
逃げた時間やクリアしたミッションによりもらえる景品が豪華になるということもあり、子供より大人が熱中しているようであった。
しかも弾丸を放つ悪役に有名芸能人のタカさんが含まれている事も、ゲームを盛り上げていた。
キャノンリングの中に入れる人数は100人と制限されており、弾丸に当たり退場となった者が出ないと入場ができない事から、来客が多い日には待ち時間が数時間という事もざらであった。
その日は休日であったものの来客はさほど多くなく、15分ほど列に並んで入場することができた。
入場の際にスマートウォッチを手に巻かれた。逃げた時間を計測する事、ミッション達成のために使用する事、弾丸に当たると感知する事等、このゲームで最も重要な装置との事である。
入場してまず、チェックポイント10か所にスマートウォッチをタッチして回るミッションにチャレンジした。このミッションをクリアしない事には、何ももらうことができないチュートリアル的なものである。
3か所目のチェックポイントをクリアした時、後方から悲鳴と怒声が聞こえた。
『おらおらおらぁッ!』タカさんである。特大の弾丸を特殊な装置で弾き飛ばしている。一瞬で3人のチャレンジャーがゲームオーバーとなった。
これは狙われると逃げられない。先を急ごうとしたその時、小学校低学年くらいの眼鏡をかけたおかっぱ頭の男の子が泣いていた。親とはぐれたらしい。仕方なく手をつなぎ一緒に走る。
タカさんの声が聞こえなくなったので走るのをやめ、少年に名前を聞いた。
『ヒロム』少年は答えた。100ポイントためてスイッチをゲットするのが今日の目標らしい。現在のスコアは逃亡時間10分、ミッションポイント3。
100ポイント貯めるには60分以上逃げる事と40ポイントのミッションを達成する事が必要だ。かなりの幸運が必要だろう。
「ゲットできるといいね。」和んでいるのも束の間、メイドコスプレをした女子大生3人が悲鳴をあげながら私たちを追い抜かしていった。
「また来た、ヒロム君逃げよう」少年の手を取ろうとした時、少年は俯いて首を振った。そしてくるっと振り返ると、ウオーッと雄たけびを上げながら迫りくる敵に向かっていった。
キョンシーに特攻をかけたスイカ頭を思い出しながら、それは無謀だよと目で追っていると、あえなく特大弾丸にぶち当たりゲームオーバーとなっていた。
『さよならー』ヒロム君の断末魔が虚しく響いた。
「ごめんヒロム君、ここでお別れだ!」
私はまた、キャノンリングを走りだした。
天才の思考回路
その日は夕方5時に哲哉の家に集合する事になっていた。
5分前に哲哉の家のチャイムを押すと、先に来ていた俊彦が中からドアを開け顔を出した。
『いらっしゃい』自分の家のように言った俊彦の長髪をのれんのようにかき分け、「おじゃましまーす」と哲哉に聞こえるように大きな声で言った。
部屋に入ると哲哉はヘッドホンを耳に被り、熱心に音楽を聴きこんでいた。
『桜井は今日来れないらしいぜ。』俊彦が話しかけてきた。
「じゃあ今日は何するんだよ。」私は少しきれ口調で尋ねた。
『今後の路線変更について話し合うらしいよ。』俊彦は他人事のようにつぶやいた。
路線変更?音楽バンドを組んで以来、約5年テクノ系一筋でやってきた我々が何を今更?
その時、哲哉がヘッドホンを外して、私の存在を確認した。
「哲哉、路線変更ってどういう事よ?」挨拶も交わさず単刀直入に尋ねた。
『テクノ系に興味が持てなくなったんだよね。』哲哉は少し伏し目がちに言った。テクノ系だけで500曲くらい歌を作っていたのは事実で、興味が薄れていたのは私も同様だった。
「じゃあ、何に路線変更するのさ?」何のアイデアも持たず、全て哲哉に依存している自分を感じながら馬鹿みたいな声で質問をした。
『演歌。』哲哉はたった一言、そう言った。何の言い訳もせず。中学卒業後の進路を聞かれて高校と答えるような、ごく自然な流れだった。
私は言葉と流れのギャップの大きさにたじろいで、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。和風のクッキーが中指に当たったのに気づいた。
「そうか、じゃあこれ食べて。和のインスパイア。」
哲哉はそのお菓子を受け取り一瞥した後、うんと頷いた。
10分も経たない内に、哲哉は即行で演歌を1曲書き上げた。
津軽海峡冬景色とみちのく一人旅を足して2で割ったような、ゴリゴリの演歌に仕上がっていた。
『歌詞は俊彦が書いて。』哲哉は一仕事終え、放心した顔でそう言った。
『タイトルはどうするかな?』ソファに寝転んだ俊彦は誰に尋ねるでもなく、空中に言葉を放った。
すでに頭の中で描いていたのか、哲哉はまた自然な流れで答えた。
『真由花』
私は大きな赤いニキビを思い出し、少し困惑した。